1. ゆめこうさつぶ!
  2. 2014/04/04掲載分に頂いたご意見に対して

2014/04/04掲載分に頂いたご意見に対して

《はじめに》

先日、「ゆめこうさつぶ!」のサイト内文章を引用するかたちでまとめられたご意見を目にする機会がありました。(殴り返す。|がっちゃんごっちゃん
このように文章を引用していただき、同時に「ゆめこうさつぶ!」に対するご指摘をいただくことや、「ゆめこうさつぶ!」の文章を批判的に取りあげて別様の議論を展開していただくことは、「ゆめこうさつぶ!」にとっても実りのあることであり、勝手ながらありがたく拝見いたしました。

しかし、今回いただいたご意見のなかには、実際には「ゆめこうさつぶ!」として全く主張していないことがらについてあたかも私たちがそう主張しているかのように(「」つきで)要約されている箇所が多く見受けられたことも事実です。また、これまでにも同じような誤読から生じるご意見を何度か目にしてきており、今回のご意見を抜きにしても、「ゆめこうさつぶ!」の主張を今一度分かりやすくまとめなおす必要性があるのではと常々感じておりました。
もちろん、解釈するということが常にすでに誤解を含む事態であるならば、多少の誤解についてはむしろ何かを主張した時点で甘んじて受けてしかるべきものであるとも言えます。
とはいえ仮にそうした誤解の多くが私たちの主張の書きぶりから生じているとすれば、それは私たちの不徳の致すところです。

そこで、今回は「ゆめこうさつぶ!」の核となる主張をいくつかとりだし、補足をさせていただくことで、少しでも誤解の生じうる可能性を「ゆめこうさつぶ!」の側から排除することができればと思い、筆をとりました。
その際、「ゆめこうさつぶ!」を引用して書かれた当のご意見を、いくつかこちらからもこういった形で引用させていただいております。この引用については、ご意見を寄せていただいた方個人への攻撃や非難を意図したものでは一切ありません。あくまでひとつの補足の手がかりとして、便宜上、引用させていただいております。

目次

1:2014年4月4日掲載分に対する補足
1.1:「ゆめこうさつぶ!」のスタンス

「ゆめこうさつぶ!」は「夢小説」と呼ばれる二次創作形態について考えています。 具体的には、
「夢小説の創作としての特異性はどのような点にあるのか?」
「夢小説をどのように定義しうるか?」
「夢小説の本質とは何か?」
という問いについて自分たちなりの答えを出すことが、「ゆめこうさつぶ!」の活動の目標と言えます。
このような問いを立てた背景にあるのは、「夢小説を読んだり、書いたりすることでしか満たされない欲望がある」という私たち自身の個人的な嗜好と実感です。

夢小説を読んだり、書いたりすることでしか満たされない欲望がある。 だとだとすれば、他の創作にはなく、夢小説にしかない、夢小説固有の特徴が必ず存在する。

これが「ゆめこうさつぶ!」の基本的なスタンスです。

1.2:「ゆめこうさつぶ!」における夢小説の定義

「ゆめこうさつぶ!」では夢小説を「『固定された名前を持たない存在』が登場する特殊な二次創作形態である」(2014/04/04 1.1と定義しています。
「固定された名前を持たない存在」には、一般に読み手が自由に名前を変換する機能が付されているため、こうした存在をここで「名前変換対象」と呼ぶことにします。

この定義はところで、広義の意味において(形式的な意味において)は、「名前変換機能が実装された二次創作形態」全般についてあてはまるものです。
しかしながら、「名前変換対象」の「固定された名前を持たない」というそもそもの性格をかえりみたとき、この定義に狭義の意味において(内実的な意味において)あてはまるものが、「名前変換機能が実装された二次創作形態」全般のなかからさらに絞られていくことになります。

それが(つまり狭義の意味において「夢小説」と定義しうる創作が)、考察本の対談『夢小説の構造分解』および2014/04/04 掲載分において述べたように、「名前変換対象が〈モブ〉である夢小説」なのです。

>名前変換対象は「誰にでもなりうる誰か」として特定の名前を持たず、個性を持たないが、とはいえ夢小説においてはそのような存在が同時に、原作キャラクターと接点を持ちうる存在として原作世界に場を持っていなくてはならない。
この「名前を持たず」「個性を持たず」「原作世界に場を持つ(すなわち原作キャラクターと接する正当性を持つ)」という名前変換対象の特徴を、ここでは(考察本においても)「モブ」と言い表しているのである。(2014/04/04 2.1

〈モブ〉と呼ばれる名前変換対象と対となるのは〈オリキャラ〉としての名前変換対象です。 〈オリキャラ〉としての名前変換対象は〈モブ〉とは対極の特徴を持つものとして考えています。

1.3:「固定された名前を持たない」ということの本質

名前変換対象が〈モブ〉である夢小説が狭義の意味において夢小説であると定義づけられるのは、〈モブ〉の存在が(名前変換対象の)「固定された名前を持たない」という性質の本質的な意味を汲んでおり、それゆえに広義の意味における「名前変換機能が実装された二次創作」としても、その機能をもっとも効果的に、もっとも不可避的に実装していると考えられるからです。

それでは「固定された名前を持たない」とは一体どのような事態であるでしょうか。

>名前とは本来、その存在の唯一性・個別性を端的にあらわすものであるから、特定の名前を持たない存在はその唯一性・個別性を持つことがない。その意味で、このような名前変換対象は「誰でもない誰か」であるし、裏を返せば同時に「誰にでもなりうる誰か」であると言えるのである。(2014/04/04 1.2

「誰でもない誰か」「誰にでもなりうる誰か」とはここで、端的な意味において、「固定された名前を持たない存在」と同値です。「あなたは誰ですか?」と問われて、答えられない存在、あるいは逆に、どうとでも答えられる存在が、〈モブ〉であり、夢小説におけるほんらいの「名前変換対象」です。

「あなたは誰ですか?」という問いを無効化するような存在が登場する創作形態について、「ゆめこうさつぶ!」では、そのような創作は狭義の意味における夢小説しかありえないと考えています。つまりカップリング創作、オリキャラ創作など、夢小説以外のあらゆる創作においては、「誰でもない誰か」「誰にでもなりうる誰か」という存在はけっして登場しません。そこに登場する存在は「あなたは誰ですか?」という問いに必ず答えられるはずです。

したがって、夢小説の夢小説にしかない特異性をこの「誰でもない誰か」「誰にでもなりうる誰か」という存在が登場するという特徴にひとまずみいだすことができるのです。

2:いただいたご意見に対する訂正
2.1:「読み手が感情移入すること」と「書き手が読み手の感情移入を想定すること」の取り違えについて


前述の議論を踏まえたうえで、今回いただいたこちらのご意見(殴り返す。|がっちゃんごっちゃん)に対して議論内的な誤解について2点(2.1、2.2)ほど解く必要があると判断し、ここに補足させていただくことにいたしました。
また議論外的なスタンスの問題(2.3)についても、最後に少しだけまとめさせていただいております。

p>「ゆめこうさつぶ!」では前述の通り、夢小説の定義において「名前変換対象への読み手の感情移入の多寡、有無、(不)可能性」については一切触れておりません。そもそも『考察+』を引用していただいておりますが、『考察+』のなかに「感情移入」という単語は一回も登場しません。(ついでに言うと「自己投影」という単語も一回も用いていません。)

読み手が創作内部に登場する任意の存在に「感情移入する」ということは夢小説に限らずあらゆる創作形態において可能なことです。

したがって、読み手が名前変換対象に実際に感情移入するかしないか、できるかできないか、といったことは夢小説の定義としては不要な論点です。それゆえ「(名前変換対象に)設定があれば「感情移入が少ない」とたわけたことを書いている」といったことは事実ではなく(書いてません)、「夢小説であるならヒロイン/主人公に「感情移入すべき」という考え」についてもそのような主張は一切しておりません。

おそらくこのような誤解が生じる背景には、先日(2015年6月17日)更新した「創作審神者・夢審神者と『自己投影』」というWEB対談における「読み手の自己投影を想定して書かれた夢小説がほんらいの意味における夢小説である」という主張の読み違えがあると思われます。
この主張は夢小説がことさらに「書き手の自己投影が含まれる二次創作である」と言われることへのアンチテーゼとしての意味合いが強いものでしたが、とはいえこの主張も根本的には2014/04/04掲載分考察本における夢小説の定義から説明することができます。
つまり「読み手の自己投影を想定している夢小説」とはそもそも、「名前変換対象が〈モブ〉である夢小説」のことです。あらゆる創作のあらゆる「固定された名前を持つ登場人物」に読み手が自己投影(感情移入)することは可能ですが、創作内部に「固定された名前を持たない存在」が登場し、この存在に対して読み手が自己投影(感情移入)することを書き手が想定して書かれているような創作は、夢小説以外にありえません。

※また、言うまでもなく「読み手の自己投影を想定する」ということは読み手に対して「自己投影しろ」と強要することではありません。

「オリキャラ」と称されるものは「誰にでもなりうる誰か」なのである」というご意見はおそらく、あらゆる創作のあらゆる登場人物に感情移入が可能である、という論旨において出されたものだと思われますが、それはあらゆる創作における「固定された誰か(つまり原作キャラクター、オリキャラ等)」に「読み手」が感情移入しているという事態を指すのであって、やはり「固定されていない・誰でもない誰か」や「誰にでもなりうる誰か」が登場するのはほんらいの意味における夢小説しかありえません。「誰にでもなりうる誰か」という「ゆめこうさつぶ!」独自の夢小説における〈モブ〉の定義を、あらゆる創作において見受けられる「感情移入」という事態にあてはめて語るのは、まったくの誤解であると思われます。

こうした誤解を解けば「女と男ができることが違うとされているこの世の男女差別にでも言及する」といったご指摘についても言われのないことであるとご理解いただけると思います。やや、何を批判されているのか分かりにくい論点ではありますが、こちらで解釈させていただくのであれば、おそらくは「ゆめこうさつぶ!」が、「女は男に感情移入できない」という主張をしているのだと感じられているのではないかと思います。しかし、あらゆる登場人物に感情移入することが可能であることを、私たちは毫も否定していません。というよりむしろ、そのような議論には立ち入ってすらいません。2014/04/04 2.3の議論につきましては、名前変換対象としての「誰にでもなりうる誰か」が、「誰にでもなりうるのならば、私でもありうる」という論理を下地にしています。「誰にでもなりうる誰か」という名前変換対象の、つまり〈モブ〉の本質をまっとうするためには、その「誰か」が「私(読み手自身)」であるという可能性を不可避に含んでいなくてはなりません(こうした議論については考察本PDFの35頁以下の批評が詳しいかと思います)。その意味で、仮に「私は女である」と考えている読者であれば、「男主人公は(女である)私である」と同定することはできない。したがってそのような読者にとっては、〈モブ〉としての性格は薄れる、と推論したまでです。夢小説の読者がほとんど女性であり、女性としての自覚を持っている、と仮に前提しているこの前提そのものが差別的であるというご指摘であれば、たしかにデータとして数値が出ているわけではありませんが、あまりに論点がずれており揚げ足取り的な批判であるようにも感じます。
感情移入するということは創作内における「私ではない誰か」の存在に「私」を重ねあわせるということだと思われます。そしてこのような事態はあらゆる創作において可能なことです。夢小説においても可能です。しかし、「私でもありうる誰か」が創作内に登場し、その存在に(まさに名前を入力するように)「私」という存在を直接に代入しうるような創作は、夢小説以外にありえません。夢小説とは他ならぬ「私」の可能性を担保する、特異な虚構なのです。

読者が「モブ」と「オリキャラ」を分かつのだ」という基準の主張についても、「感情移入の多寡、有無、(不)可能性」という基準は読み手の側が持っているものだという論点から帰結したものであると思われますが、こうした基準についてもあらゆる物語創作においてあてはまる基準であって、夢小説の定義としては不要な論点です。夢小説の定義を考える場合には、やはり書き手の側に「モブ」と「オリキャラ」とを分かつなんらかの「書き方」の差異があると考えたほうが構造の本質を理解するうえでは有意義であると思われます。

2.2:「正しい夢小説と誤った夢小説を恣意的に区別すること」と「夢小説の定義を前提として住み分けの問題を考えること」の取り違えについて

「ゆめこうさつぶ!」では、冒頭で述べた通り「夢小説の夢小説にしかない特徴が必ず存在する」というスタンスで夢小説の定義や構造について考えています。
つまり「夢小説の夢小説にしかない特徴」を問い、それに答えるということが「ゆめこうさつぶ!」の第一の目的であり、当初頒布した考察本(2013年12月29日発行)においては夢小説の独自の構造を考察することにほとんど終始していました。

こうして求めた自分たちなりの「答え」を、夢小説という創作形態が実際に抱えていると思しき問題を解きほぐしたり整理したりするという場面において、どのように用いることができるのか、ということについて考えたのが「住み分け」の問題でした。

つまり「住み分け」の問題は「ゆめこうさつぶ!」にとってはいわば応用編です。
応用編ということは、「住み分け」の問題については自分たちが求めた答えとしての「定義」や「構造」を最低限、議論の前提として語るということを意味しています。

独自の定義を議論の前提として語るということは、けっして「自分が定義したもの以外への攻撃」ではありません。仮に私たちが住み分けの問題において自分たちが設定した夢小説の定義を前提とし、その前提から外れた創作作品が現状「夢小説」というラベリングのもとに存在していると結論づけたとしても、私たちにはそういった創作作品そのものを否定する(つまりそういった創作作品を作る自由を否定する・そういった作品の存在を否定する)意図はまったくありません。
とはいえ「住み分け」の問題を議題としている以上は、独自の定義を前提としたうえで、「創作形態Aはこの定義にあてはまるだろう」とか「創作形態Bについてはあてはまらないのではないか」という議論をしていくことになります。

この「あてはまらない」という主張が仮に創作形態そのものを否定しているように捉えられているのであれば、それは大きな誤解です。

したがって「住み分け」の議論は「間違った夢小説書きに「悔い改めろ」と言っている」わけでも「「オリキャラ」は間違ったヒロイン」であると主張しているわけでもありません。前提としている「ゆめこうさつぶ!」の定義そのものを受け入れられない場合は、ともすれば恣意的な「正しい」「間違っている」という区別が適用されているように見受けられるかもしれませんが、そのような意図はありませんし、むしろ「ゆめこうさつぶ!」における夢小説の定義や夢小説の構造理解そのものについては論理的に得られうるものだと考えています。それゆえ「住み分け」の問題にご意見をいただく場合は、「住み分け」の問題が前提としている定義や構造理解そのものの論理的欠陥をご指摘いただくほうが有意義であるかと思われます。

2.3:夢小説を定義することの意義について

最後に、「ゆめこうさつぶ!」に対する議論外的なご意見として、そもそも「夢小説を定義する必要があるのか」といったご指摘がなされうるかと思います。
引用させていただいたブログでも、もっとも根本的な「ゆめこうさつぶ!」に対する「受け入れがたさ」は「夢小説を定義すること」それ自体にあるように感じました。

「住み分け」の問題については、私たちは私たちの導出した(夢小説の)定義を前提として語っているだけですが、当の定義そのものについては夢小説の夢小説にしかない本質的な構造に突き刺さるものであると信じて主張しています。
つまり、私たちは「夢小説はこうであるべき」だとか「この作品は夢小説として正しい」といったルールを設定したいわけではありません。まして「人の妄想にケチ」をつけるというような次元の主張をしているわけでもありません。
「ゆめこうさつぶ!」のそもそもの主張は端的に「夢小説とは〇〇である」という命題であり、この主張については夢小説独自の構造を紐解くことで、ある程度の論理的な道筋も確保していると考えています。

たしかに「妄想」や「趣味」や「二次創作に対する欲望」といったものは「個人的なもの」として数えあげられる最たるものです。
しかし妄想や、趣味や、二次創作に対する欲望が、個人的なものであるということと、「夢小説という対象に画一的な定義が必要ない」という論点はバッティングするものではなく、むしろまったく次元の違うはなしでもあります。

「妄想」が真に「個人的なもの」ならば、それを他者に公開するかたちで創作することはできません。それゆえ「個人的なもの」を他者に向けて公開した時点で、それは「個人的なもの」を避けがたく超え出てしまっていると考えるべきです。他者と共有しうる創作に対して、およそ他者と共有しうるあらゆる対象に対して、なぜ他者と共有しうる定義を模索する必要がないと考えられるのでしょうか。むしろ定義は必要であり、定義は存在しているのであり、存在するならばその定義とは何かと問いたいと思うことも、しごく自然な欲求ではないでしょうか。

「反論があるのは当然、私は個人の意思を貫いたまで」などと自己完結されてはたまらん」とありますが、私たちはむしろ、他者の反論や意見を求めているからこそ個人の意思を貫いているのであり、自己完結を目的としてはいません。そしてまた、私たちが公開しているのは「こうしろ」「ああしろ」「こうであるべき」といったローカルルールではなく、ひとつの定義です。そしてこの定義の真偽や論理性の検討を、こうして文章を公開することで仰いでいます。

それゆえ、あらゆる議論内的な定義についてのご指摘やご批判は、誤解も含めてありがたくちょうだいさせていただきますが、「定義する必要がない」という議論外的なご意見やそういった立場の上に成り立つご指摘につきましては、あまり生産的なものではないと考えます。

3:「ゆめこうさつぶ!」とジェンダーの問題について


こちらはいただいたご意見に補足として出された文章(一応補足。|がっちゃんごっちゃん)に対する返答になります。
こちらのご意見につきましてはあまりにも論点や主題がずれているため、「ゆめこうさつぶ!」の主張内容とは直接に関係のないお答えになってしまいますが、それゆえにこそ誤解としてはもっとも解く必要があるものと判断したので、こちらで返答させていただきたいと思います。

「ゆめこうさつぶ!」には夢小説を定義することでジェンダーの問題に踏みこもうとするような意図は一切ありません。また、無意識的に旧来のジェンダー規範(こちらの方の言葉を借りるのであれば「(社会的な異性愛模範による)男に愛されたがる女は正しい」等の考え方)にのっとった議論をしているといった事実も一切ありません。

まさかとは思いますが、こういった誤解の背景には「〈モブ〉は無個性で主体性がない受け身の女性像である」とか、あるいは「〈オリキャラ〉は男と対等の物語の主人公たりうる女性像である」とか、そういった解釈があるのではないでしょうか。もしもそのような解釈をしていらっしゃるのだとすれば、それは「ゆめこうさつぶ!」の解釈としては言われのないものであるばかりか、そもそもそのような議論をした覚えはまったくありません。なぜなら、私たちが提示しているのはあくまで夢小説の原理的な構造についての主張であって、そこにジェンダーの問題をさしはさむ必要はさしあたりないからです。〈モブ〉と〈オリキャラ〉を女性の主体性の有無という観点から腑分けし、そういった定義をなさるのはご勝手ですが、それは私たちの議論における〈モブ〉と〈オリキャラ〉の区別とはなんの関わりもなく、解釈としては大きな誤りです。

女性がみずからの嗜好について述べた主張にさいしてことさらにジェンダー的観点を持ちこみ、女性が発信した議論の背景に逐一そういったジェンター規範による抑圧があるのではないかと穿った見方をすることは、むしろそれ自体が「あらゆる女性は社会的に抑圧されている」という女性に対する否定的なバイアスではないかと感じます。さしあたりジェンダーの問題とは関わりのない議論に対して、「無意識にそういったものがある」ともしも語りたいのであれば、正当な典拠や引用をまじえて論理的な説得力のある文脈において語っていただきたいものです。

「(社会的な異性愛模範に反する)愛されること以外を望む正しくない女」というものを「オリキャラ」という存在にすり替えて」いるのは、「ゆめこうさつぶ!」に対してもはや解釈の範囲を超え出た曲解をなされているそちらのほうではないでしょうか。

夢小説をジェンダーの観点から論じることは、あらゆる対象をジェンダーの問題から語りうるように、もちろん可能なことではありますが、私たちの議論はさしあたりそのような問題に踏みこんだものではありませんし、仮に今後踏みこむとしても〈モブ〉と〈オリキャラ〉とどちらが女性の自由を表現しうる存在であるのか、といったような単純な議論をする気はまったくありません。

2014/04/04掲載分に頂いたご意見に対して ― 了

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