1. ゆめこうさつぶ!
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『ゆめこうさつぶ!~庭球日誌~』に頂いた反応を見ての補足

《導入》

2013年12月29日に開催されましたコミックマーケット85にて頒布した夢小説考察本「ゆめこうさつぶ!~庭球日誌~」に寄せられたご意見・ご感想などを受けて新たに補足した内容です。

目次

1:2014年4月4日掲載分に対する補足
1.1:夢小説は「固定された名前を持たない存在」が登場する二次創作である

夢小説は「固定された名前を持たない存在」が登場する特殊な二次創作形態である。

カップリング創作(やおい創作)が主に原作キャラクター同士の二者関係を軸としているのに対し、最もオーソドックスな夢小説の登場人物は「原作キャラクター(しばしば男性)」と「原作には登場しない人物(しばしば女性)」の二者であり、多くの場合は両者間の恋愛模様を描くことが創作の軸となっている。

この「原作には登場しない人物」の名前が小説内で登場する場合、読み手は書き手が小説内に設置している「名前変換機能」*によってそこに任意の名前を自由に入れこむことが可能であり、それゆえ夢小説はしばしば「名前変換小説」とも呼ばれる。

ただし、夢小説の本質は「実際に名前を変換すること」にあるわけではない。

夢小説を読むとき、名前を変換することなく、書き手の設定したデフォルト名のまま文章を読むという選択をすることもまた読み手の自由である。それゆえ夢小説の本質的な構造はむしろ「そこに名前を変換できる〈誰か〉(=名前変換対象)がいること」それ自体に見いだされるべきであり、この〈誰か〉の「名前の非固定性」、もっと言ってしまえば「存在の非固定性」こそが夢小説にとっての肝要となる。

このように考えるのであれば、「夢小説は“キャラ×自分”の創作である」といった一般に見受けられる説明の仕方は夢小説の定義として充分であるとは言えないだろう。「キャラ×自分」はあくまで読み手にとっての夢小説のひとつの楽しみ方をあらわしている表現に過ぎない。書き手にとって、あるいは読み手にとっても、名前変換の対象は必ずしも「自分」ではないだろうし、むしろ名前変換対象はそのような絶対的な固定性を持たず、絶えず揺らぎを含み持った透明な存在としてあるのである。

* 特殊なタグを用いて任意の名前を文章に反映する機能。

1.2名前変換機能は〈誰にでもなりうる誰か〉をつくる

夢小説における「名前変換機能」は、名前変換対象をほかならぬ「自分(=私)」にするためにあるのではない。

先に述べた通り(1.1参照)、名前変換機能が生みだすのは「誰にでもなりうる誰か」という非固定的な存在である。名前が変換されうるということは、その存在があらゆる名前を引き受け、あらゆる名前で名ざされうる可能性を持つということと等しい。

名前とは本来、その存在の唯一性・個別性を端的にあらわすものであるから、特定の名前を持たない存在はその唯一性・個別性を持つことがない。その意味で、このような名前変換対象は「誰でもない誰か」であるし、裏を返せば同時に「誰にでもなりうる誰か」であると言えるのである。それゆえ、名前変換対象は決して断定的に「私」となることはないが、「誰にでもなりうるならば、私にもなりうる」という仕方においては「私」の可能性を絶えず含み持つ存在でなくてはならないだろう。

名前変換対象は一体誰であるのか、という問いに答えうるのはひとえに名前変換機能を使用しうる読み手の側であって、書き手ではない。

書き手が創作するのはあくまで「誰にでもなりうる誰か」という不定形の存在であり、この点において夢小説を創作するということは、あらかじめ固定性を持ったキャラクターを動かすカップリング創作とも、あるいは書き手自らがキャラクターの固定性を生みだす一次創作(オリジナル創作)とも全く異なっているのである。

1.3スローガンは「あなたの夢を叶えてしんぜよう」

「夢小説起源論」(Web再録4~5p参照)にも記述があるが、夢小説の黎明期においては夢小説を創作する同士間(書き手間)のスローガンのようなものとして「あなたの夢を叶えてしんぜよう」という言葉がひろまっていた。

ここで言う「あなた」とは書き手のことではなく、もちろん読み手のことをさしているだろう(そもそも最古の夢小説は書き手が読み手である友人のために作成したものであるとも言われている)。これはつまり、夢小説が本来的に不特定多数の「あなた」としての読み手に向かってひらかれた二次創作であったということを示している。

夢小説の「夢」は「私の夢」ではなく「あなたの夢」だった。これは非常に示唆的な事実である。

夢小説はその本質的な構造において、つまり「任意の対象の名前の固定性を消去する」という構造において、あらかじめすでに他者の存在をその内側に受け入れており、構造それ自体が「私」と「あなた」の共感のフェイズを含み持っているのである。

夢小説は決して書き手の内で完結した、閉じた創作ではありえない。こうした書き手と読み手との(他の創作に比べて)高低差のないひらかれた関係、あるいは書き手と読み手とが「“読み手の夢”として書き手が生みだしたもの」を通して避けがたく関わりあっている創作のあり方もまた、夢小説の夢小説独特の特殊な構造のひとつではないだろうか。

2:名前変換対象の構造について
2.1名前変換対象は〈モブ〉である

原作世界をベースにして語るとき、名前変換対象はいわゆる「モブ(モブキャラクター)」に似た存在として捉えられる。モブ=mobとは英語で「群衆」の意であり、名前を持たず、特徴も持たず、物語に直接関わりのない端役のことを指した語である。

前述のとおり(1.2参照)、名前変換対象は「誰にでもなりうる誰か」として特定の名前を持たず、個性を持たないが、とはいえ夢小説においてはそのような存在が同時に、原作キャラクターと接点を持ちうる存在として原作世界に場を持っていなくてはならない。

この「名前を持たず」「個性を持たず」「原作世界に場を持つ(すなわち原作キャラクターと接する正当性を持つ)」という名前変換対象の特徴を、ここでは(考察本においても)「モブ」と言い表しているのである。

「モブ」は「モブ」であるがゆえに単体で動くことは不可能であるが、原作キャラクターとの接点を介してのみその存在を動かしたり描写したりすることが可能になる。

それゆえ「モブ」としての名前変換対象に必要なのは例えば原作キャラクターに対して年上であるか、同い年であるか、年下であるか、あるいは原作キャラクターにとってクラスメイトであるか、幼馴染であるか、恋人であるか、というような原作キャラクターとの関係における相対的な設定であって、その存在それ自体の容姿であったり家族構成であったり生い立ちや好きな食べ物云々といった原作キャラクターのあずかり知らない絶対的な設定は厳密に言えば不要なのである。

むしろそのような奥行きがあまりにも深く生まれてしまうと、名前変換対象はたとえ名前を変換することができたとしても「モブ」ではなくなってしまうだろう。

2.2〈オリキャラ〉は名前変換対象として矛盾をきたす

夢小説における名前変換対象の中には「モブ」ではなく、書き手のつくりだした「オリキャラ(=オリジナルキャラクター)」*としての意味合いが強い存在も見受けられる。

「オリキャラ」はしばしば詳細なプロフィールが書きだされていたり、あるいは書き手の思い入れのこもったデフォルト名が付されていたりするが、このような「オリキャラ」の特徴は「名前を持たず」「個性を持たない」といった名前変換機能がそもそも生みだしうる名前変換対象の特徴とは真逆であると言える。

「オリキャラ」は「誰にでもなりうる誰か」ではありえない。それはむしろ替えの効かない「他ならぬ」存在であって、「モブ」とは正反対の存在である。

つまり、名前変換対象が「固定された名前を持たず」「単体としての個性を持たない」存在であると特徴づけられているとき、「(事実上)固定された名前を持ち」「単体として強い個性を持つ」存在である「オリキャラ」が名前変換対象として設定されるのであれば、そのような存在は名前変換対象として定義上の矛盾をきたしていると言わざるを得ないだろう。

現に「オリキャラ」傾向のある夢小説サイトにはその旨が但し書きされていることも多く、これこそ本来「オリキャラ」が名前変換機能と相性が悪い、あるいは名前変換対象にそぐわないということを書き手自身がある程度認めており、読み手に対して配慮していることのあらわれではないだろうか。

*「モブ」と「オリキャラ」との間に具体的な境界線を引くのは難しい。というよりもむしろ、固定された境界線を引くべきではないとも言える。というのも夢小説が「誰にでもなりうる誰か」という存在を描きだすという特殊な創作の態度を持つとすれば、書き手が名前変換対象を「モブ」として描いているか、あるいは「オリキャラ」として描いているか、という書き手側の意識の違いこそが「モブ」と「オリキャラ」を分かつ決定的な差異であるという側面を拭えないのである。名前変換対象に付される個性が多少強かったとしても、書き手が「モブ」としての意識を持ってその存在を描ききる場合、読み手もまた「誰にでもなりうる」という感覚を持って小説を読むことができるだろう。

2.3男主人公は〈誰にでもなりうる誰か〉ではありえない

夢小説における名前変換対象はたいていの場合女性であるが、男性の名前変換対象(=男主人公)が登場する夢小説も決して珍しくはない。

考察本においては男主人公の議論は割愛したが、割愛したのは数としての少なさゆえではなく、男主人公の議論はすべて「モブ」と「オリキャラ」とを対比した議論の内に回収しうると判断したからである。

夢小説の読み手はおそらくほとんどが女性であるだろう。女性が夢小説を読むとき、名前変換対象を「誰にでもなりうる誰か」すなわち「誰にでもなりうるならば、私でもありうる」存在として認めるには、もちろんその存在が女性として登場してくるのでなくてはならない。

けれども女性の読み手にとっては、男主人公は異性であるがゆえに決して「私ではありえない」存在である。

「私ではありえない」男主人公は「誰にでもなりうる」存在としてはその非固定性が弱い(すなわち固定性が強い)と言わざるを得ない。確かに固定性の極力抑えられた男主人公は存在するだろうが、男主人公の場合は読み手との性差が根本的に「誰にでもなりうる誰か」という特徴を弱めてしまうのである。それゆえ男主人公は「モブ」と「オリキャラ」の対比の上では「オリキャラ」寄りの存在として処理しうるだろう。

3:夢小説界におけるすみ分けの問題について
3.1〈オリキャラ〉に名前変換機能は不要である

欲望もまた真逆のものであると言えるだろう。

考察本においても夢小説界においてもすみ分けが必要ではないか、という問題提起はしたものの具体的なすみ分けの方法については触れるいとまがなかった。そこで今回はあくまで一案としてのすみ分けの方法ならびにすみ分けをめぐる問題についてまとめる。

まず「夢小説」内部におけるすみ分けを考える前に、前述の議論(2.2)をかんがみるのであれば、「オリキャラ」の登場する夢小説には必ずしも名前変換機能は必要ないのではないかという問いが生まれる。

そもそも夢小説は原作キャラクターと原作には登場しないオリジナルキャラクターとの関係を描いたオリキャラ小説の派生であるとも言われており、これは裏を返せば「オリキャラ」の登場する小説は夢小説として枝分かれする必要のない二次創作であるということにもなるだろう。夢小説は本来「オリキャラ」が登場しないからこそ、夢小説という独立したジャンルたりえたのである。

このような状況を把握したうえで、果たして名前変換機能が生みだす「モブ」的特徴を無視してまで、「オリキャラ」の名前に非固定性を持たせる必要はあるだろうか。オリジナルキャラクターを創作したいのであれば夢小説という創作形態にこだわる必要もことさらには感じられない。

今となっては「オリキャラ」色の強い名前変換対象が登場する作品が夢小説界の主流であるようにも思われるが、一度自らの創作を見つめなおし、名前変換機能の要不要もしくは名前変換機能が効果的に機能しているか否かを問うことも書き手に求められている誠実な姿勢のひとつであるように思われる。

3.2「名前変換小説」という名称を活用する

「夢小説」内部におけるすみ分けの方法のひとつとしては、「モブ」の登場する夢小説を取り扱うサイトが積極的に「名前変換小説」という名称を活用するという自主的なフィルタリングがもっとも手軽で、実行にうつしやすいのではないだろうか。

昨今では「夢絵」「夢漫画」などの名称もしだいに浸透しはじめており、もはや「夢」=「登場人物の名前を変換しうる二次創作」という感覚は薄れはじめているようにも思われる。「モブ」の登場する夢小説にとって、「夢小説」という名称自体がすでに居心地の悪いものとなってしまっているという面は否定できないだろう。

そこで「モブ」の登場する夢小説を、名前変換機能を効果的に扱っている小説として「名前変換小説」と呼ぶことによって、夢小説界の内部において「オリキャラ」と「モブ」のゆるやかなすみ分けを目指してみるというのはどうだろうか。

現に筆者の実感としては、「オリキャラ」の登場する夢小説を中心としているサイトが自ら「名前変換小説サイト」を名乗ることは少ないように見受けられる。

「夢小説」と「名前変換小説」の名称としての差異は、一般的には小説内における恋愛要素の多寡に見いだされることが多いだろう。

つまり「名前変換小説」という大きな枠組みの中に「夢小説」という恋愛要素の強い小説があるという認識である。けれども今となっては「夢小説」のすべてが必ずしも名前変換機能を効果的に扱っているわけではないため、現実問題として「夢小説」を「名前変換小説」の枠のなかから取りだし、「夢小説」を再定義してしまうほうがすみ分けを実現するという目的にあっては近道であるかもしれない。

守るべきは「夢小説」という名称ではない。「固定された名前を持たない存在」が登場する二次創作そのものが特殊な二次創作形態として守られるべきなのである。

3.3:すみ分けを必要としている層・していない層

夢小説界においてカップリング創作界のように徹底したすみ分けがなされないのは、そもそも「夢小説」の定義が曖昧であることや、「夢小説」内におけるカテゴライズが困難であるということに加えて、すべての夢小説の読み手・書き手が必ずしもすみ分けを必要としているわけではないという実情に依っているのかもしれない。

カップリング創作は同じキャラクター同士の関係を愛好している者の間でも、「攻め」と「受け」の配置が入れ替わると決定的な嗜好差となる場合がある。

もちろんなかにはどんなカップリングでも受け入れられるというひともいるだろうが、おそらくは「このカップリングは好きだけれど、このカップリングは苦手である」というような思いを持った読み手・書き手が大半を占めているだろう。

つまりカップリング創作界においては「苦手なカップリングはできれば見たくない」という思いを誰もが共有しえているために、徹底したすみ分けがマナーとして成立するのである。

一方、夢小説界においてはどうだろうか。例えば「モブ」の登場する夢小説を愛好する者は「オリキャラ」の固定性に違和感を覚えるかもしれないが、逆の違和感が生じるかといえばそのような事態は想像しがたい。

「モブ」と「オリキャラ」のすみ分けをしようとするとき、すみ分けたいという思いは一方通行である可能性が高いのではないだろうか。

このような状況においてすみ分けを徹底するのは困難であると言わざるを得ない。だからこそ、すみ分けを必要としているのであれば必要としている書き手自身が自主的に別称を名乗っていくという方法がもっとも現実的なのである。

4:守るべき二次創作形態・夢小説

夢小説は本来、もちろんカップリング小説でもなければ、オリキャラ小説でもない。

夢小説とは、本来的には「名前変換機能」を駆使し、「誰にでもなりうる誰か」と原作キャラクターとの関係を軸とした、全く特殊な二次創作形態である。

このような構造を持つ創作形態がこれから先「夢小説」の名のもとで名前変換機能が形骸化した「オリキャラ小説」の波におされ、もはや「夢小説」とは呼べなくなってしまったとしても、この独特の創作のあり方そのものが完全に消滅してしまうのはあまりに惜しいことである。

確かに名前変換機能を挿入することは書き手にとっては一手間であるかもしれない。けれどもこの一手間の機能を利用することでしか生みだすことのできない創作があり、そのような創作を持ってしか満たされない欲望もまた確かにあるのである。

特別な存在ではない、物語の主人公になどとうていなりえない「ふつうの女の子」として原作キャラクターと共にあることの愉悦や、あるいは原作世界にできるかぎり透明な存在として「わたし」の視点を埋没させ、原作キャラクターだけを純粋に深くまなざすことの喜びは、決して理解しがたいほどにマイナーな欲望ではないはずである。むしろ本来夢小説が表現しているのは、とても原初的な、素朴な「妄想」のかたちではないだろうか。

こうして頒布した考察本ないし当サイトを通して夢小説の本来的な構造とは何であるか改めて考察することが、微力ながらこうした素朴な二次創作形態を守るための一助となれていれば幸いである。

『ゆめこうさつぶ!~庭球日誌~』に頂いた反応を見ての補足 ― 了

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